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蘇州寒山寺性空法主と日本
カテゴリー 日本
「楓橋夜泊」 張継(唐):月落烏啼霜満天、江楓漁火対愁眠、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到客船。(月落ち烏啼いて霜天に満つ、江楓漁火愁眠に対す、姑蘇城外の寒山寺、夜半の鐘声客船に到る。)唐代の詩人、張継が詠んだ「楓橋夜泊」であり、この名作は日本でも代々、詠い継がれ、この詩によって、蘇州にあるこの小さい寺の寒山寺は、人に知られる江南の名刹にりました。中国漢詩好きな日本人も、「楓橋夜泊」と寒山寺の関連で、中国行く時に、蘇州のツアーで、寒山寺には欠かせない内容です。特に年末の鐘音を聞くツアーは一番人気でした。

寒山寺の鐘は、唐代に鋳造されたものが、ずっと昔になくなり、明代嘉靖年間(1522-1566年)に、もう一度鋳造されました。再び鐘を失われました。日本に流失したと言われた説もあり、日本の僧、山田寒山は日本各地を探したけど、見つからなかったです。1905年伊藤博文とともに、発起人となり、寄付を集め、梵鐘を鋳造することになり、完成した鐘を1914年寒山寺に寄贈され、現在寒山寺の大雄宝殿に納められました。伊藤博文が書いた銘文も刻まれました。以前正月に響いた鐘の音は、清の光緒32年(1906年)寒山寺修復された時、鋳造されたもので、高さ1.3メートル、口径1.24メートル、重さは約2トンです。この鐘が一度撞くと、余韻は42秒も響き続きます。1963年、42歳の性空和尚(1921年3月14日-2017年12月12日)が寒山寺に入り、伝統文物の保護、「鐘声、塔影、詩韵」の寺院文化の復帰、普及に尽力しました。

1978年秋、ある日本の友人が日中友好の記念として、寒山寺に五葉松を植えました。性空和尚も日本社会教育友好団の一員として、訪日し、対外友好交流が始まりました。1984年、性空和尚は寒山寺の方丈になりました。2005年、寒山寺が建てられた唐の時代の鐘の仕様で、武漢で製造された世界一大梵鐘を鋳造され、鐘の高さ8.5m、直径は5.188mで重さ108トン、高さ30メートルの鐘楼も建てられ、重さ400トン、高さ15.855メートルの華夏第一詩碑に、 張継の「楓橋夜泊」を刻まれ、その周囲に、寒山子詩碑108枚も設置し、2008年8月、性空和尚方丈から蘇州寒山寺法主になり、同年12月30日、大鐘大碑園を開園しました。2017年12月12日(农历丁酉年十月二十五)性空法主97歳「示寂」(じじゃく)しました。

中国の書道協会会員でもあり、性空法主はたくさんの書道作品があり、2007年春節(2月18日)、友人の菊地榮子さんが団長として、訪中団が寒山寺に訪ねて、87歳の性空方丈が目の前に、近縁白紙のサインしに「福」一文字肉筆紙本を書いていただき、一緒に写真も写りました。2月19日、90歳になった菊地さんがこれをお土産として、私にプレゼントにしました。日中友好は中国人から日本人、日本人から中国人になり、代々繋がるでしょう。性空法主の肉筆紙本をたくさんネットで販売されたほど、その作品の味は、法主の年とともに、奥深くなり、おただいた「福」も、とても「円満」に感じました。

*寒山寺は、南北朝時代の南朝梁の天監年間(502年 - 519年)、武帝の時期に「妙利普院塔院」として創建されたとされる。寒山寺という現在の寺名は、唐代の貞観年間(627年 - 649年)に風狂の人寒山がこの地で草庵を結んだという伝承にちなむとされる。襄陽出身の張継が、有名な「楓橋夜泊」を詠んだのは8世紀中頃のことである。伽藍の創建は8世紀から9世紀にかけてのことであり、石頭希遷によると伝えられる。全盛期の寒山寺の面積は広大で、巷間で「馬に乗って山門を見る」と言われるほどであった。当時、北方から訪れた旅行者の多くは、まず寒山寺を参詣してから蘇州の市街に入ったという。(Wikipediaより)
2023-02-20