陶氏診療院

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金メダルが欲しい
カテゴリー 日本
4月24日、友師クラブ北海道例会が東京の3KM経営塾と共催で札幌土屋ホーム本社で行われました。後半、スキー部葛西選手の講演会があり、これで三回葛西さんの話を聞きましたが、とても感動しました。

北海道下川町出身、5人家族、幼児時、からだが弱かったから、お父さんにマラソンにつれられ、毎朝走るようになりました。段々丈夫になるにつれ、村で一番早い人になりました。

村祭り時、ジャンプ台を飛んだら、はまってしまいました。危ないのとお金がかかる(服セット30万円)の理由で、普段芋餅を主食に入れる家計を見て、両親は反対をしました。

しかしシャンプに夢中になった葛西さんは内緒で飛びました。先輩岡部のおさがりを使って練習しました。今でも岡部さんは先輩、良いライバル、兄貴として仲良く付き合っています。自分は両親に家を建てたい気持ちで、中学校まで負けなし成績でジャンプを飛んでいました。中学生時、札幌の大会のテストジャンプに選ばれ、プロの厳しい注文を受けて、怪我しないように初めて飛びました。翌日新聞に「影の優勝者」として報道されることがコーチから知らされ、びっくりしました。世界ジュニア試合を出て、世界の壁を感じ、1988年は45位でした。高校は寮でトレーニングを真面目にすると、7位まで上がりました、しかし練習が減って、スランプ一年の経験もしました。その時母の手紙から励まされ、今まで、実家は貧乏だから、働きっぱなしの母から受ける愛情が足りないと思い、甘くしたいのせいか母からの手紙は今でも大事に保管しています。

他の試練も沢山あります。1992年飛ぶ姿勢は「V」字変更を遅れ、シャンプ初めから一番怖い記憶がありました。始めのオリピック出る時、「V」は「レ」の形、ジャンプは失敗しました。

初優勝したのはウェイトトレーニング200kgのおかげです。1993世界選手権、「神風葛西」の名付けされ、1994オリピック、妹の「再生不良性貧血」の難病を応援するため、頑張っているけど、個人5位、13位、団体2位で終わりました。

1994練習中、鎖骨骨折、二度しました。心が折れた時期もありました。2005年までやっと恐怖心がなくなった、その間、火事で70%やけどした母、1996年11月脳死になりました。1998年8名選手選考落ち、さまざまな挫折を体験しました。

また、所属するチームのスポンサーの会社、地崎工業、マイケル相次ぎ倒産し、2001土屋ホームでスキー部を再開し、「逆境こそ」と思って、頑張りました。2002年.2006年.2010年三回のオリンピック大会、期待する結果出ないけど、2003年フィンランドのコーチの元で、量より質の訓練を始めました。世界選手権メダルが取れた、1998スキー長さ、服、手袋、幅など規則の変化も対応して、会社、社会感謝の気持ち、2010年まで6回目、140m,135m,快心のジャンプが出来ました。その時から心が変わりました。人に、規則に合わせる姿勢から、自分に合わせの気持ちに切り替えて、上手くいったことの証拠は41.8最年長優勝、本番で一回目の練習なしでも、一本目139m、2本目緊張の中も133.5m、初めてオリンピック個人二位になりました。22年間初めてのオリンピックのメダル、報告が出来るようになりました。

さまざまな経験で分かることは「努力すればできる、人を感動できる」ことです。

今シーズン、また記録更新でき、三年後46歳、七年後上海かカザブスタン、2026年札幌オリンピック時、54歳でも金メダルを取りたいです。優勝への決意が感心しました。講演後、メダルを触らせて頂きました。とても重いメダルでした。握手を頼んでも、喜んで対応して頂きました。ファンサービスを実感しました。さすが世界のトップアスリート選手だなぁと思いました。とにかく凄いです。これからの発展も期待します。
2015-04-26